僕が踏み躙ってきた愛情と日常の総て

ゲイ。アラサー。フリーター。こんな僕の日記です。

青春の輝き 後編

翌朝、僕は目が覚めた。

目が覚めてしまった。

手首をあの程度切ったぐらいで死ねる筈が無かった。

時計に目をやる。9時20分。もう遅刻だ。

母に隠れてじくじくと痛む手首に包帯を巻き、学校へ向かう。

タイミング悪く、僕が学校に着いたのは英語の授業の真っ最中だった。

「珍しいな、駒。遅刻か」

「すみません。ちょっと……色々あって」

「まあいいから、席に着いて教科書開け」

気まずい思いをしながら席に着き、

その日一日は手首の痛みに耐えながら授業を受けて過ごした。

放課後、いつものように伊藤先生の所へ出向いた。

特にその日は、朝遅刻したために聞き逃してしまった授業の部分を

質問しなければならないと思い、意気込んでいた。

「先生、今朝はすみませんでした。

 聞けなかった所、教えていただけますか」

「お前ならそう聞きに来ると思ってたよ。

 それじゃあ、教科書の――」

座って机に向かっていた伊藤先生は、

僕に目をやるとふいに言葉を途中で止めた。

僕の左手首が視線に入ったらしい。

巻かれた包帯を凝視したまま、伊藤先生は無言になった。

伊藤先生は立ち上がり、僕の腕を掴んで教室を出て、

僕を男子トイレに連れて行き、そのまま個室の中へと押し込んだ。

夕暮時で薄暗くなった男子トイレの狭い個室で二人きり。

一体何をされるのかと戸惑っていると、

伊藤先生は僕の左手をとり、手首に巻かれた包帯を解いていった。

その神妙な顔付きに圧倒され、

僕は何も言えぬまま包帯を解かれてしまった。

まだ塞がらない傷口が露になる。

伊藤先生は硬い表情のまま、無言で僕の傷口を見つめていた。

しばらくして、静かな怒りの篭められた視線を僕の瞳に向けた。

「これは何だ」

「……離して、ください」

「これは何だと訊いている。答えろ」

「……離して、ください……っ!」

何も知らないくせに。そう思った途端、目から涙がぽろぽろと

こぼれ落ちて来た。

僕は泣きじゃくり始めた。

「僕の事なんか、どうだって、いいじゃないですか……っ」

僕は泣いた。何もかもが悲しかった。

僕を取り巻く総てのものが、僕自身を裏切る気がしてならなかったのだ。

僕が伊藤先生に抱いている気持ちが報われる日が来ないなんて、

頭では解っていた。それでも、突きつけられた現実は

当時高校生時分だった僕には余りにも辛辣過ぎた。

泣きじゃくる僕を前に、伊藤先生は困惑の色を見せた。

一度その手で解いた包帯を再び僕の左手首に巻き付け直し、

伊藤先生は驚く事に僕をその胸の内に抱いた。

「悪かったな、辛かったんだよな」

僕は思わず伊藤先生の胸に縋り付いて泣き喚いた。

それからしばらく、伊藤先生は僕が落ち着くまで

ずっとそうしていてくれた。

月日が経ち、ころ太の一件で急遽進学を取り止めた僕だったが、

僕の進学取り止めを心から惜しんでくれたのも伊藤先生だった。

ころ太の件の一連の流れを話し、それについて僕がどう感じたと説明しても、

伊藤先生はここで進学しておかないのは勿体無い、と

何度も諭してくれた。

だが、それでも僕の決意は揺るがなかった。

卒業の直前になっても、僕は伊藤先生の元へ通っていた。

もう卒業まで僅か数日というある日、伊藤先生が言った。

「しかし、駒も卒業か。三年間、頑張って勉強したな。

 よく通ってくれた」

「いえ、こちらこそ、伊藤先生もお忙しいところに

 お邪魔してしまって。本当にお世話になりました」

「毎日見ていたお前の顔も、もう見られなくなるのか。

 寂しくなるなあ」

「そこは、『カノジョ』さんに慰めてもらえばいいじゃないですか」

「何、馬鹿な事言ってんだ。はは」

僕が茶化すと、伊藤先生は怒るふりをして笑った。

しかし伊藤先生は急に押し黙り、突然僕の左手首を掴んで言った。

「強く生きるんだぞ。

 ころ太の分も、お前がしっかり生きるんだ。

 それだけがお前の使命なんだ。他に何も気にする必要はない。

 お前の生きたいように、でも、何事にも負けず、何物にも揺るがされず、

 生きていくんだ」

左手首の傷口はすぐに塞がったが、すっかり痕になってしまっていた。

その痕を示しながら、伊藤先生は僕に言ったのだった。

僕は何も言えなかった。

何て言えばいいのかすら解らなかった。

しかし、胸の奥からこみ上げてくる熱は

やがて涙と言う形になり、僕の頬を伝う。

僕の涙を認めて、伊藤先生は優しく微笑んで続ける。

「何回転んだっていいんだ。何回迷ったっていいんだ。

 どれだけ泣いたって構わない。生きろ。

 自分の意義が見出せなくたって、自分の価値が解らなくたって、

 お前が毎日目が覚めて、物を食べて、何かを見て感じて、

 そして息をしている事そのものにお前自身の価値と意義があるんだ。

 周りの誰もお前を認めてくれないような事があっても、

 お前がそれを忘れずにいればいいんだ。

 先生がお前にしてやれる事なんて、本当にこれっぽっちも無いけど、

 お前が今日もどこかで元気に生きてくれていると思えるだけで、

 先生は――それだけで、幸せだ」

夕暮れの橙色に包まれた校舎で、

伊藤先生が僕をまた抱き締めた。

僕もまた、伊藤先生の胸の中で泣いた。

夕陽に染まる伊藤先生の横顔。優しい瞳。その胸のにおい。

僕を抱いてくれた腕の強さまで、僕は今でも鮮明に覚えている。

これが僕の初恋だった。

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